お隣の庭に芍薬の花が奇麗に咲いています。この花は美しい女性の立ち居振る舞いに例えられる花です。美しい女性の立ち居振る舞いを表す言葉に、「立てば芍薬、座ればボタン」という言葉があります。この花の原産地は中国、朝鮮半島です。用途は切り花、鉢植え、花壇、薬用です。花言葉は「優美」と紹介されています。今日は芍薬の花とヒルサキツキミソウの花とネギ坊主を紹介致します。1.芍薬の花2.お隣の庭のヒルサキツキミソウの花2.近くの畑のネギ坊主芍薬の花とヒルサキツキミソウの花とネギ坊主♪
私が3歳の時に、第二次世界大戦の終戦の前に宇和島大空襲がありました。その大空襲の時、私は父親に抱かれて、100m位離れあ所にある「金堀山(かねほりやま)」と呼ばれていた防空壕があり、そこに逃げ込む姿を覚えています。その防空壕に逃げて行く道から街が真っ赤に焼けている様子が鮮明に残っています。防空壕内は地域の方々が非難してきており、赤ちゃんの鳴き声がしていました。すると誰かが「赤ちゃんを泣かすな!B29に聞こえる!」と怒鳴っていたのも覚えています・・・我が家には街に住む親族が疎開してきて住んでいましたが、空襲警報が鳴ると、親族は真っ先に裸電球の傘に光が外に漏れないようにする専用のカバーをかけ、新しく作った家族用の防空壕に逃げて、B29が飛び去るのを見ていたのも記憶に残っています。街に住んでいた父親の姉は焼夷弾...3歳の時の第二次世界大戦中の宇和島大空襲の記憶♪
私の母に関する記憶で一番古いものは、第二次世界大戦中の2歳の時のものです。80年前の母の思い出です。丁度綿雪がちらちら舞っていて、農業用の池の傍の傍を母親に背おられている状況でした。綿雪が時々顔に舞い落ち、「防空頭巾」をかぶっていたのも覚えています。「防空頭巾」は母の手作りで、木綿の布に2cm位の綿を入れて作られ、とても暖かでした。母に背おられていたので、綿雪の舞う中、母の白いうなじが目の前にあり、今も鮮明に覚えています。母の実家に行くと今も当時の農業用の池が残っておりそこを通ると、母に背おられてそこを通っていた記憶がよみがえります。皆様方の母親に関する一番最初の思い出はどのような思い出でしょうか。1.下の写真はパンフラワーの先生に頂いたパンフラワーの作品です。私が2歳の時の母の思い出♪
お隣の庭に芍薬の花が奇麗に咲いています。この花は美しい女性の立ち居振る舞いに例えられる花です。美しい女性の立ち居振る舞いを表す言葉に、「立てば芍薬、座ればボタン」という言葉があります。この花の原産地は中国、朝鮮半島です。用途は切り花、鉢植え、花壇、薬用です。花言葉は「優美」と紹介されています。今日は芍薬の花とヒルサキツキミソウの花とネギ坊主を紹介致します。1.芍薬の花2.お隣の庭のヒルサキツキミソウの花2.近くの畑のネギ坊主芍薬の花とヒルサキツキミソウの花とネギ坊主♪
聖書にはダビデ王は、民を連れ出し、石切り、鉄の刃物や鉄のおのを使ったきつい仕事をさせたことが記されていました。これは王として住民の福祉に反する行為でした。引き続き聖書には次の内容が記録されています。「ダビデの子アブサロムにはタマルという美しい妹がいた。ダビデの子アブノンはタマルに恋をした。アムノンは妹タマルのことで思い悩み、具合いが悪くなるほどだった。彼女は処女で、アムノンは彼女に何もできそうになかったからである。アムノンには、ダビデの兄弟シムアの子で、エホナダブという名の友人がいた。エホナダブは利口な人だった。エホナダブは言った。「王の子であるあなたが、どうして毎朝そんなに思い悩んでいるのですか。話してくれませんか」。アムノンは言った。「タマルに恋をしているのです。私の弟アブサロムの妹です。」。エホナダ...ダビデの子アブサロムにはタマルという美しい妹がいた♪
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